『氷点』で、辰子の家の茶の間は次のように記される。
茶の間は十畳。この茶の間がおもしろい。踊りにはあまり関係のない、学校の教師、医者、銀行員、商店主、新聞記者など雑多な職業の男たちが、何とはなしに集まってくる。ひるでも、夜でもひまがあるとでかけてくる。
辰子がいても、いなくても遠慮はなかった。ねころんだり、出窓に腰をかけたり、好きなところに、好きなように席を占めて雑談をする。
中には碁をうつもの、酒をのむ者、飯を炊く者、自分の家か人の家かわからない。
「米がなくなった」
とだれかがいった翌日は、だれが持ってくるのか、もう米びつは一杯になっている。
この茶の間では、ニーチェも、ピカソも、サルトルも、ベートーベンも親しい友のように語られていた。
稽古のない時は、辰子は柱を背にして、ふところ手のままみんなの話を聞いている。
太宰治が死んだ時、会ったこともない彼のために、この部屋で神妙にお通夜をしたこともある。
辰子はここに集まる人たちを「茶の間の連中」と呼んでいた。
「茶の間を開放しよう」(『丘の上の邂逅』所収)には、藤尾辰子の茶の間が作者である三浦綾子の家とよく似ていることを次のように記している。
実は、わたしの嘗ての療養時代、そして結婚して小説を書くまでのわたしの家が、ややこれに似ていた。男や女の友だちが、いつもわたしの病室に訪ねてきていて、彼らはわたしと何時間も話したり、眠ければ眠ったり、本を読んだり、または、何も言わずにじっとベッドの横にすわっていた。朝の十時ごろから、夜の十時ごろまで、客は絶えなかった。
また、雑貨屋をしていた時、問屋の外交員たちは、わが茶の間でのんびりと憩い、身の上話をし、ひる寝をした。友人たちも、好きな時に恋人を連れたり、一人でぶらりと訪ねては、食事をし、客同士で話し合い、時には店を手伝ったりした。
家庭を開放すること、これをわたしは、わが家のひとつの使命にしてきた。が、小説を書くようになって、訪問客が一層ふえながら、その仕事のために、ゆっくり人と話し合う時間を持てなくなった。