integral:三浦綾子資料室

作家・三浦綾子に関する研究をするブログ。※予告なしに記事の修正削除およびURLの変更を行います。

菅原豊

 堀田綾子と三浦光世を引き合わせた人物。札幌で結核療養の傍ら、独学でガリ版刷りを学んだ。「いちじく」という冊子を発行。

一九五五年六月十八日――この日がのちに、生涯忘れ得ぬ記念の日になろうとは夢にも思わず、一枚の葉書を背広のポケットに、私は勤務先の旭川営林所を出て、堀田綾子の家を訪ねていった。
 さわやかに晴れた土曜日の午後であった。当時私は、営林署の経理事務を担当し、週日は八時九時まで、みんなが正午に帰る土曜日は五時頃まで残業をするのが常であった。その日六月十八日は、珍しく早目に仕事を切り上げたのであったろうか。
 ポケットの葉書は、札幌の菅原豊という方からの葉書で、「どうか堀田綾子さんを見舞ってあげて下さい」と書かれてあった。菅原氏は既に故人となられたが。結核療養の傍ら、月々「いちじく」という謄写版刷りの冊子を発行しておられた。日本各地から寄せられる結核患者、牧師、死刑囚等のキリスト者の手紙、詩文等を編集、自らガリ切りをして配布しておられたのである。「いちじく」誌はいわば結核療養者やその体験者を主とした信仰の交流誌ともいえた。
 「いちじく」誌を私に紹介してくれたのは、死刑囚S君であった。何かのことからS君と文通しているうちに、こんなグループがあるので入ってみてはと勧められたのである。同誌に旭川から手紙を寄せていたのは、当時堀田綾子と私だけであったと記憶する。ある時彼女の文章に注目させられ、
「同じ旭川におりながら、どこにおられるかわからぬ堀田様、どうかお大事に」
 という便りを菅原氏に出した。菅原氏は光世という名の私を女性と思っていたらしく、女性は女性同士で励まし合うとよいであろうと、私に葉書を下さったわけである。
(三浦光世『妻と共に生きる』)


 二人の結婚に際し、「家庭もまた教会でなければなりません」と祝いの言葉を贈る。

 生年月日不詳。1977年5月3日、菅原豊の訃報を知り綾子と光世は札幌へ。光世はホテルに滞在し、綾子一人で夜20時過ぎ北一条教会へ赴く。翌5月4日、10時、菅原豊の葬儀に二人で出席。15時30分からの追悼集会に出席、婦人牧師南義子の話に感動する。

参照:
「天の録画」(『愛すること信ずること』所収) 
「菅原豊氏のこと」(初出「朝日市民文芸」19号、1977年11月、のち『それでも明日は来る』所収)

「菅原豊氏の死」(『泉への招待』1983年9月1日刊、日本基督教団出版局に収録)